Essay
エッセイ

珈琲を淹れる

 
珈琲を淹れる。
何年ぶりだろう。
この香り。
 
ふわりと鼻の奥をくすぐる、深くまるみのある香りは。
挽きたての珈琲豆に湯を吸わせながら、ゆったりとその香りを楽しむ。
懐かしさに酔いつぶれそうだ。
こんなふうに過ごせる時間のあることなど、すっかり忘れていた。
 
気づけば、いつのまにか珈琲を断つようになっていた。
はて、いつからだろう。と考えをめぐらせて、はたと思いいたる。
あのとき、あのひとの書いた、あの文章だ。
 
珈琲は体によくない。ハーブティーをお飲みなさい。その文章は、そう語っていた。
 
なんでも、珈琲にはカフェインが含まれており、カフェインには中毒性があり、依存しやすくなる。よってギャンブルのようにハマり、病気を病気と気づかないまま過ごすことになりかねない。カフェインはアルカロイドであり、ほんの少量でも動物に対してひじょうに強い生理作用を及ぼす、云々かんぬん、かくかくしかじか、侃侃諤諤。と。
 
それはとても説得力のあるもので、こころの弱っていた私はなるほどそうかとすっかり納得させられてしまったのである。その文章におびえた私は、以来すっかりと珈琲をやめてしまったというわけ。
 
息子がまだ目白の保育園に通っていたころだから、3年くらい経つだろうか。3年ぶりかあ。それは、短いようでもあるけれど、長かった印象である。
 
実にさまざまなことにあふれた3年間だった。子どもは保育園を卒園して、小学校へ入学した。引越しは2度経験した。ほかにも何かあったっけ。
 
会社勤めや、ほかたくさんのことをやめて、新たなことをはじめた。
都会生活をやめて、田舎で暮らすようになった。
酒をやめて、コメの精米は自分でするようになった(精米機を使うけれど)。
 
バレエをやめて、カヌーをはじめて。
ほかにもたくさんのことが変わったな。
ひとつひとつは小さなことでも、なんだか大きくがらりと変わった気がする。
 
そんなふうに日々を精いっぱい暮らしているなかで忘れていた時間。
ゆったりとした気持ちでもって、ていねいに過ごす時間。
それが、珈琲を淹れるという時間。
 
カフェインがどうとか、中毒がどうとか、ギャンブルがどうとか、依存症がどうとか、そんなものではないのだ。これは、珈琲を飲むこと以上に、私にとって大事にしたい、とっておきの時間だったのである。あんな文章に惑わされて自分の大切な時間をふいにしていたなんて。ばかみたい。

これはこれで、「こころ」や「感情」というものを満たすのに必要なことなのである。
 
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  ハングリー精神が育たなかったいいわけをいくつもいくつも考えている / 鑓水青子

(2019年)