Essay
エッセイ

さようなら、東京。

 
息子を連れて、東京を離れることにした。
 
私のわがままから推しすすめてきた計画はいま、実行に移ろうとしている。
 
湖のそばで暮らすということ。
自分で設計した住まいに暮らすということ。
夫とおなじ墓に入りたいということ。
いつでも夫のそばにいたいということ。
 
これからの人生のなかで、いちばん大事にしたいことを挙げてゆく。
 
そこには、私のほかはだれの都合も加味されていないけれど、息子はよろこんで受け入れてくれた。
 
大事なひとからの贈りものであるこの子の賛成が心強い推進力となって、私の夢は急速に動きはじめる。
 
茨城県の霞ヶ浦。
この広い湖のほとりで夫は静かに眠っている。
こんなにも静かなひとだったなんて、知らなかった。
 
夫は、いつだって私がうれしそうに楽しそうにしているのがすきだった。私がやりたいことをみつけて夢中になっていると、それだけで満足していた。とつぜんに新しい仕事をはじめたときも、未知なる分野を勉強しはじめたときも、夜更かしして小説を読んでいるときも、それが私を楽しませるものであれば、なんだって応援してくれた。
 
上京したばかりで東京に友人も知り合いもいなかった私に、同世代の女優さんを引き合わせてくれたこともあった(夫は当時、役者であった)。「うちのカミさん、大阪から来たばっかで友だちいないんだ。もし気が合ったら仲良くしてやって」と。その女優さんとは、互いの自宅を行き来する関係を築かせてもらっている。
 
夫は家を空けることが多く、「任せっぱなしで悪いな」と言っていたけれど、私はこの東京の部屋で家の仕事をするのがすきだった。
 
私の大事なひと。夫。少しでも彼の支えになるならうれしいと思っていた。
 
春、このひとの故郷で、新たな人生をはじめます。
 
いざ。
この地に庵さす。
 
土地の造成も済み、設計もすすみ、まもなく地鎮祭を迎える。
地元の宮大工たちが、こころをこめて建ててくれるだろう。
私はその仕事ぶりを近くでそっと見守ってゆく。
 
 
  良い親ではないと思えり六年間いちども叩いたことはなけれど / 鑓水青子

(2017年)