Essay
エッセイ

秋惜しむ

このクソ暑く、長い長い夏は何なの!

と誰もが感じているだろう。感じていないとしたら相当なお人好しか鈍いか寛大な人である(もしくはリア充な人かもしれない)。

季節感や気温の感覚はふだん身につける衣服に最もよくあらわれる。事実、私はというと9月の末にもまだ浴衣を着ているし、11月なんてまだまだ単衣(ひとえ)である。これは着物業界の常識に照らし合わせると異例中の異例なのであり、異端もいいところである。

日本にはもはや、初夏と酷暑と残暑と暖冬しかないのではないか。だって9月になっても涼風は吹いてこないんだもん。

これでは芸術の秋、読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋がごっそり抜け落ちてしまう。秋の夜長なんていうお洒落な言い回しもなくなる。嫁に食わせないでおく秋茄子も秋カマスも秋鯖もない。もはや日本はすっからかんである。

長い長い夏がようやく終わりを告げ、涼風が吹きはじめて、ああ、いよいよ過ごしやすくなる……と安堵するのも束の間、ゆっくりしている間もなく厳しい冬がやってくる。しかも一気に。これでは秋を惜しむ暇もない。惜しみたい秋が存在しないのである。

日本の詩歌の伝統では、惜しむべき季節は春と秋であり、「春惜しむ」「秋惜しむ」とは言うが「夏惜しむ」「冬惜しむ」とは言わない。過ぎゆこうとする秋をしみじみ味わい、秋が去りゆくのを見送る。この情趣こそが日本の詩歌における詠嘆の感であるというのに。

「春よ来い」と言いながら長い冬を越し、長い長い夏をようやく乗り切ったと思ったらすぐに秋を惜しまなくてはならなくなる。つくづく秋が惜しまれるのである。
 
(2024年)