大学生のころ、法医学の講義で松田教授が云った。
――みなさん、遺言書を書いたことはありますか。
しーん。
――私は、遺言書を書くのが趣味です。毎年、いえ、下手をしたら毎月書いています。
ざわざわ。
――みなさんも書いてごらんなさい。面白いですから。
そう云って、松田教授は遺言書の書き方と例を教えてくれた。
――私は料理をする男性が好きなので、愛用のフライパンと包丁は滝田栄に遺贈します。私には夫も子どももいないので、そのほかは贔屓にしている学生に遺贈します。ひとりひとりの顔を思い浮かべながら、ひとつひとつ書いていくんですね。いちばん大事なのは、遺言書をしたためた日付を記しておくこと。死んだあとに遺言書が複数みつかった場合、遺族を混乱させないためですよ。法律では、いちばん新しい日付のものが有効となります。それから、署名と捺印も忘れないように。
その晩、遺言書を書いた。20歳そこそこのころである。
一、オンキョーのステレオとクラシックCDのコレクションは、親友のかなちゃんに譲ります。
一、通帳と現金とアマタ先生の研究室に掲げられていた言葉は、弟に譲ります。
一、プレミア付きの近鉄グッズは、藤井寺球場で出会った松原のオヤジに譲ります。
一、本棚の本は、欲しがっているひとに譲ります。四十九日までに引き取るように。それを過ぎればすべて処分のこと。
一、柩には、裕次郎の写真を入れてください。
遺言書を書いてみて、気づいたことがある。遺言書を書くと大事なひとやモノがくっきりしてくるのだ。そしてそれが生きる指針になってくる。自分にとって無駄なことやどうでもいいものは目に入らなくなる。あの日から遺言書を書くのが習慣になっているが、遺言書を書くと、不思議なことに生きる力が湧いてくるのだ。そして自分の生きたい方向性や感覚が研ぎ澄まされてくる。
これ以上、無駄に過ごす時間なんてない。もっと懸命に生きなければ。自分らしく生きていかなければ。
忙しいフリをしている暇はない。疲れている場合ではない。
そうそう、いま仕立て上がったばかりのこの着物は、あなたに譲ります。
追伸 : 遺言書を作成するにあたっては日本固有の決まりごとがありますので、じゅうぶんご注意ください。
(2015年)