Essay
エッセイ

反うすのろ時代

「携帯電話はここまで薄く軽量に」。テレビやコンピュータの画面はどんどん薄く軽くなっています。薄くて軽いことは、次世代型、未来型であり、これからのスマートな暮らしには欠かせないキーポイントとなっているのですね。

ところで先日、スーパーでスライスチーズを買ってきて驚いた。ぺらぺらなのである。私の知っているスライスチーズは、スライスとはいえもう少し厚みがあり、重みもそれなりにあった。いま手にしているこのぺらぺらチーズは、食パンに載せようとするだけで穴があき、いまにも形がくずれそうだ。「薄くて軽い」風潮は、こんなところにも影響しているのか。

スライスのベーコンやハムも、いつのまにかこんなに薄くなっているし、一昨日など、6枚切りの食パンを焼いて口に入れたとき「おや、間違えて8枚切りを買ってきちゃったかしら」とパッケージを確認したら、ちゃんと6枚切りであった。

そもそも「薄い」という言葉は、「軽薄である」とか「薄情である」とか「希薄である」とか「意志薄弱」とか、蔑みの表現として用いられることが多く、あまりよい意味では使われてこなかった。

空気の薄いところでの生活は困難を極めるだろうし、店で注文したウイスキーの水割りや酎ハイが薄いと文句をつけたくなるし、訪問した先で薄いお茶を出されたら歓迎されていないのだと悟る。

今後ますます薄さが強調されていく時代ではあるけれど、やはり合格の見込みは薄くないほうがよいし、髪が薄くなってくれば寂しい。「うすのろ」なんて言葉をとんと聞かなくなった現代においても、薄いことは歓迎されにくいのだ。

それでも薄さへの加速度はどんどん高まり、薄いことはよいこととされ、コンピュータのタブレット化はずんずん進み、万物が薄く薄く、もっと薄く、もっともっと薄く、そして小さくなってゆく。

そうして気づかぬうちに私たちヒトの存在も薄れてゆき、やがて消えてしまう日がくるのだ。

(2014年)