Essay
エッセイ

何食わぬ顔で

4歳の息子を連れて、立ち飲み屋に入る。この時期、保育園から帰る時間にはもうどっぷりと日が暮れている。風も冷たい。

急ぎ足で店に入ると、けっこうな繁盛ぶりである。牛すじ煮込みを注文してから、「弥栄鶴」を熱燗にしてもらう。息子はウインナーの串焼きを注文している。隣りあったお客のおじさんと「燗酒が沁みますねぇ」と云いあって、まわりのひとたちと笑いあっているうちに息子の姿がみえなくなる。「あら、私の子どもがいなくなったわ」と話すと、近くにいたお客のお兄さんに「子どもがいなくなったわ、じゃないですよ、探してくださいよ」と叱られる。

猪口を手にしたままうろうろしていたら、「俺は店ンなか探しますから、外みてきてください」とさっきのお兄さんの声が飛んでくる。外に出てみると、いた。

息子は外のテーブル(この店は外にもテーブルを出している)についたひとたちにコーラをごちそうしてもらっていた。嬉しそうに飲んでいる。このやろう、と思う。まわりの大人たちも嬉しそうに飲んでいる(こちらは酒である)。このやろう、と思いながら、ああ、よかった、とも思う。

息子の足もとには、プラスチック製の黄色いビールケースがあった。立ち飲み屋のテーブルは高くて息子の背では届かないから、天地をひっくり返したビールケースに乗せてもらったのだ。お客のだれかが、そこらにあったものをひっくり返してくれたのかもしれない。店のお姉さんが気を遣って用意してくれたのかもしれない。もしかしたら自分で見つけて勝手に使ったのかもしれないけれど、ああ、なんとありがたいことだろう。この子はいろんな大人に囲まれて、地域に根ざして生きている。

今の時代、面識のない大人に対して警戒心を持たないことは大きなリスクをともなうかもしれないけれど、こんな人間関係もありなんじゃないか、と思う。子ども時代にいろんな大人に可愛がってもらう経験って、むしろ大切なんじゃないか。保育園では、防犯訓練として「知らない大人についていかない」「顔を知っていても、強引に話しかけられたら『助けて!』と叫ぶ」と学んでくる。

けれども、この世は敵ではなく味方なんだということを身をもって知ってほしいし、多様性を受けいれられるひとになってほしいから。まあ、これは母親として半分以上いいわけなのだけれどもね。
 

(2016年)