Essay
エッセイ

ゴミやしき

小学5年生か6年生のときだったと思うが、家庭科(社会科だったかもしれぬ)の教科書に載っていたイラストが忘れられない。「モノはいつかゴミになる」という項で、家庭のなかのようすが描かれており、見開き2ページ分がまるまるそのイラストに割かれていた。

居間にはテレビやそのテレビを乗せた台、こたつ、座布団などが置かれ、台所には冷蔵庫、鍋や食器、それを収める食器棚など、こと細かに描かれている。そして、それら「モノ」にはひとつひとつコメントがつけられていた。コメントには、いずれも「ゴミ」と書かれている。テレビや冷蔵庫、洗濯機には「5年後のゴミ」、箪笥には「20年後のゴミ」、干された洗濯物には「1年後のゴミ」、そしてテレビの脇に置かれたごみ箱には「すでにゴミ」という具合に。

このページの主旨が何であったかは覚えていないけれど、30年前のことである。「モノを大事にしましょう」「なるべくモノの寿命を延ばしましょう」というメッセージではなかったかもしれない。むしろ、「どんどんゴミにして、どんどん消費して、どんどん購買しましょう」だったのではないか。当時の私は「Tシャツが来年にはゴミになるなんて、嘘でしょう!」と驚いたし、家電製品なんて一生ものだと信じていたのだ。先生は教科書を示しながら「モノの寿命はせいぜいこれくらいのものだ」とかなんとか言ったのではなかったか。「リサイクル」「リユース」「リデュース」が謳われ、少ないモノで豊かに暮らすことの大切さを唱えている現代とは、ニュアンスが違ったのではないか。

現在の私が地球の環境問題に向き合う仕事をしているのも、そのころの疑問がこころのどこかにくすぶっているからかもしれない。スタッフそれぞれが環境の分野で活動しているわがオフィスでは、設立当初から「ゴミを減らす」ことに命をかけている節がある(事例をいくつか紹介したいが、割愛し、またの機会に譲る)。

さて。くだんの教科書に掲載されていたイラストであるが、すてきな家のなかにはこんなにも便利なモノや暮らしに欠かせないモノがたくさんあるにもかかわらず、何か足りない。この寂しい感じはなんだろう。考えているうち、この絵にはひとのぬくもりがないことに気づいた。そこで、「私」を描いてみる。

部屋のなかに私を立たせたら、たちまち「70年後のゴミ」というコメントが襲ってきた。

(2016年)