Essay
エッセイ

椅子は置いていません

 
――椅子、置いてないんですね。

わが家を訪れるひとが決まって口にするセリフである。「意外ときれいにしているね」と言うひとはいない。だれもが開口一番、「椅子がない」と訴えるのである。

だってね、椅子を置くと、それだけでもう場所を取られるでしょう。仮に、食卓に4脚、学習机に2脚置いたとして、まず椅子6脚分のスペースが必要になるよね。

埃やパンくずを払ってやったり、座面や背もたれを拭いてやったり、寄せてやったり引いてやったり、ね。面倒をみなけりゃならないわけ。それ、私のほかにだれがやるのよ。時間も労力ももったいないじゃない。無駄よ、無駄。

ね、わかる? 部屋に椅子を置くだけで時間と労力の無駄になるの。だから、椅子は置かないわ。

これが、いっしょに暮らすひとと交わした最初の約束だった。約束といっても、ほとんど一方的に押しつけているのだけれど。振り返れば、いつも私は自分の思い通りに事を運ばせてきた。

だからさ、ホチキスは使わないで、って云ったじゃない。ホチキスの針は燃えないゴミだから、紙とは別にしなけりゃならないの。これ、いちいち外すのたいへんなのよ。そういうこと、ぜんぶ私がやっているって知ってる? それこそ時間と労力の無駄づかいだから、もうやめてね。

――ごめんください。
――あら、いらっしゃい。
――おじゃまします。
――どうぞ、なかへ。どうぞどうぞ、奥へ。
――・・・・・・。
――どうかなさいました?
――椅子、置いてないんですね。

(2015年)