言葉を知らないということほど罪なものはない、というのは大げさだけれども、その言葉を知らないことによって仲たがいしたり、ずっとのちまで誤解したまま過ごすハメになることがある。
小学2年生の、夏休みに入る直前に、クラスでアンケート用紙が配られた。
第1問「あなたには、すききらいがありますか?」
第2問「すききらいがあるとしたら、それは何ですか?」
私はこのとき、「すききらい」という言葉を知らなかった。「すき」と「きらい」はよく知っていたのだが、それがいっしょくたになっていると意味がわからなかった。
隣りの席のユウゴくんに、「すききらいってなあに?」と尋ねると、ユウゴくんは「キュウリとかにんじんとか書けばいいんだよ」と親切に耳打ちしてくれた。
そこで私は、「知っている野菜を書けばいいのか」と納得して、「にんじん、キュウリ、かぼちゃ、ピーマン、それからええと……トマト、なす、ごぼう、いんげん、セロリ」と書きつらねていった。「水菜、チンゲン菜、クウシン菜も知ってる。べか菜、おかひじきも!」
周りをみても、こんなにたくさんの野菜を挙げている友だちはいなかった。ふふん、私はこんなに思いついたぞ。どうだ、私がいちばんだ。よし、これはクラスで表彰されるかもしれないぞ。
その結果、なにが起きたか。
担任のオヌマ先生に叱られ、すぐに母が呼び出されたのである。母にはこっぴどく叱られた。
「あんたっ! にんじんもピーマンも好きやんかっ! なんで嘘つくのっ!」と。
これによって、オヌマ先生は私が野菜嫌いであると誤解し、母は私が嘘つきであると誤解した。「私がすききらいという言葉を知らなかった」ということだけが真実であったにもかかわらず。
こうして私は、「すききらい」=「嫌い」=「自分には関係のないもの」という方程式を覚えた。もともと私のなかには、「大すきで大切なもの」と「どうでもいいもの」しか存在しない。「嫌い」という概念はないのだ。
だからそもそも「すききらい」という言葉を覚える必要はなかったのである。
(2015年)